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Fumihiko Maki
槇 文彦   建築家

朝倉家と共に25年のヒルサイドテラス計画

ちょうど25年前、渋谷の猿楽町の旧山手通りに面した広大な敷地の所有者、朝倉不動産から敷地の一部の開発について相談したいという依頼があった。朝倉家は古くからこの地域で米問屋を始め、不動産業を広く営んできた旧家で、当時の家長の故誠一郎氏の友人、西村光夫先生(元慶應大学経済学部教授)から「建築家の槇はどうか」というお話が出たのがそもそもの始まりであったと聞いている。西村先生はまた、私の妻の父、故松本重治の友人であり、松本が理事長をしていた国際文化会館の相談相手でもあった。

私自身、その頃といえば、10年以上にわたるアメリカ生活に区切りをつけ、日本で事務所を開いて間もない時期にあたる。話は少し複雑になるが、朝倉家も槇家も三代にわたり大変に慶應義塾に縁が深く、そのために多くの点と点がさらに交錯していることが次第にわかってきた。

誠一郎氏夫妻には4人の子供さんがあり、長男徳道氏、次男健吾氏がそれぞれ既に朝倉不動産の事業を継がれていた。徳道氏の大学の時の師が先に触れた西村先生であり、長女が嫁がれた島田さんは慶應で私の一年下、兄、明氏が一年上で、私と旧知の間柄とあって明氏が使者として私の事務所を訪ねてこられた。また、次男の健吾氏と私とは共に幼稚舎で年代こそ違うが内田英二先生から親しく薫陶を受けている。

そんなこともあって、当初から、設計も何となく内輪の雰囲気で気安く進めることができた。当時の朝倉家の敷地は東隅に古いモルタルの2階建のオフィスがあり、残りの敷地に当家の木造の家屋が深い木立に囲まれて点在していた。戦後、財産税の対象として提供された本家は大蔵省の管轄下となり、現在も関係官庁の会合所として使用されている。今でもそこの庭は見事な常緑樹が鬱蒼と茂り、ヒルサイドテラスの町並みに素晴らしい背景を添え、単に常緑樹だけでなく欅もそこそこに高くそびえ立っている。20年前、第1期工事の前庭に植えられた一本の若い欅は、いまでは春先ともなればその枝葉が広場全体を覆う大きさに成長している。

このように25年も前に始まった朝倉さんの方々との出会いと交歓、そして相互信頼がそのまま第6期までのさまざまなゆっくりとした、しかし着実な開発の歴史のバックボーンになってきたのである。おそらく当初、施主側である朝倉さんも、設計する側の我々も25年後の今日の周辺のあり方を想像することは到底できなかったし、またそうした長期的なヴィジョンを持つといったわけでもない。この地域は第一種住居専用地区ということもあって、開発しえる対象は主として住居、それに一部商業施設ということであった。今でこそこの地域はファッショナブルな地域に一変してしまったが、その頃は八幡通り、あるいは並木橋から代官山にのぼるところも含めて、古い商店街こそあれ、決して洒落たブティックとかレストランがあるような地域ではなかった。従って商業施設といってもモダンな建物にふさわしいものを見つけてこなければならなかた。たまたま朝倉さんの知己で、これも慶應に因縁の深い“レンガ屋”という数少ないフランス料理店が是非店を出したいということと、さらに、その知己の美容室も出店しようという話があり、建物自体の具体的な構想もそうしたことから徐々に固まってきた。

今考えるてみると、<時>にはある確固とした一つの流れがあることがわかる。今日のヒルサイドテラスの容貌には確かに、25年の東京、そして日本の激しい変容の刻印が厳然として存在している。しかし一方において小さくはあるが歴史をつくる側に入った当事者の側からみると、それは日々の偶然な事柄、あるいは人々との出会いの集積が綴り続ける、時には運命的ともいえる事象の展開によって彩られていったのである。“レンガ屋”は先にも述べたように戦後のフランス料理店の先達の一つであり、團伊玖磨、遠藤周作等の当時の文人・芸術家達の集いの場所でもあった。第1期の頃のヒルサイドテラスは多くの人々にとって「レンガ屋のあるヒルサイド」といわれることもあった位であった。

さて、朝倉さん達は私と同じように、ゆっくりとした開発のペースを共に楽しむ雰囲気を持ち続けた。そして急いで絵にかいたヴィジョンのかわりに、地域社会の中で何が次にできるかということについて明確な意識と責任の所在を問う姿勢が常に我々のディスカッションの背後にあったと思う。たとえば、第3期の用地の真中にある数百年の歴史のある大きな塚は当初より計画の中心であった。また第5期のヒルサイドプラザは地下に埋めて上部を広場に開放すると共に、地下の施設はさまざまな文化的イベントにも供することにした。その考えはそのまま引き続き第6期にまで拡大されてきている。25年という歳月は幸い施主=事業者、そして建築家達にも、こうしたことについて充分想いをめぐらし、周辺の発展を観察し、慎重に結論を実行に移すというかけがえのない時間を与えてくれたと思う。人間の賢さも、また愚かさも、“時間”というものの審判にゆだねられることが多い時、これは貴重な経験であったと思う。

猛烈な勢いで進行する巨大なプロジェクトに否応なしに参加させられることの多い今日、朝倉家の方々とともに歩んだヒルサイドプロジェクトの軌跡は、我々建築家にとって最も幸せな記憶となることにちがいない。

槇 文彦 経歴
1928年 東京生まれ
1952年 東京大学工学部建築学科卒業
1953年 クランブルグ美術学院修士課程修了
1954年 ハーバード大学修士課程修了
1956年〜1961年 ワシントン大学準教授
1962年〜1965年 ハーバード大学準教授
1979年〜1989年 東京大学工学部建築学科教授
1965年〜 (株)槇総合計画事務所代表
現在 日本建築家協会会員/アメリカ建築家協会名誉会員/英国王立建築家協会名誉会員/ドイツ連邦建築家協会名誉会員
主な受賞
1958年 グラハム財団国際美術賞
1963年,1985年 日本建築学会賞
1987年 レイノルズ賞
1988年 ウルフ賞
シカゴ建築賞
1990年 トーマス・ジェファーソン建築賞
1991年 国際デザインアワード
1993年 朝日賞
プリッツカー賞
UIAゴールドメダル
プリンス・オブ・ウェールズ都市計画賞
IAITAクォーターナリオ賞
1998年 村野藤吾賞
1999年 アーノルド・ブルンナー記念建築賞
高松宮殿下記念世界文化賞建築部門
2001年 日本建築学会大賞

主な作品

代官山ヒルサイドテラス(1969−92)、スパイラル(1985)、京都国立近代美術館(1986)、藤沢市秋葉台文化体育館(1984)、幕張メッセ(1989)、東京体育館(1990)、慶応義塾湘南藤沢キャンパス(1990-94)、霧島国際音楽ホール(1994)、イエルバ・ブエナ・ガーデンズ芸術センター(サンフランシスコ/アメリカ 1993)、イザール・ピューロ・パーク(ミュンヘン/ドイツ 1993)、名取市文化会館(1997)、富士国際会議場(1999)、テレビ朝日(2003)、国立国語研究所(2005)

HPアドレス http://www.maki-and-associates.co.jp/

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